out of control  

  


   29

 妙な言い方になるが、一度死んで目が覚めたら、世界の色が変わっていた。
 俺自身はまだ冬の風景に取り残されているのに、俺を包む空気も、風景も、今は柔らかな春のものだ。
 俺に対して向けられる鷹の視線も、鴉の視線も変わっていた。
 どうも俺とティバーンが戦った話が漏れたらしいんだが、一体誰が、どんな説明をしたのやら。
 ティバーンに教えてもらって気になっていた本を読んでいる間にも何人かの鷹の戦士が訪れて、熱心に稽古をつけてくれとせがまれた。
 鴉の戦士は妙に誇らしげだし、わけがわからん。
 結局墜とされたのは俺の方なんだがな。話がちゃんと伝わってないんじゃないのか?
 そうは思ったが今さら蒸し返せる空気でもないし、俺はなにも言わないことに決めた。
 ティバーンもあの調子だしな。
 昨日はああ言ったものの、ティバーンとリュシオンが俺に「なんとかしてくれ」と持ってきた書類は、クリミアのフェール伯の書状と、ベグニオンの新しい領主からの挨拶状だけだった。ほかにも一応数枚あったんだが、そちらは二人の努力の跡がよく見えて、少し手直しするだけでどうにかなった。
 ベグニオンの新しい領主からのものについては簡単だ。どう難解な文章で書かれたところで、こういった形式上のものに対する返信の内容は決まってるからな。問題はフェール伯からのものだが…これは二人の手に負えないのもしょうがないな。あの狸親父はまったく、返信に頭を使う内容のものを毎回よく考えると思う。貴族ってのは人生の退屈を少しでも紛らわすのも仕事の一つなんだろうが、それで俺の時間が割かれるのは正直迷惑だ。
 もちろん、俺の方からもせいぜい頭を使うだろう内容のものを送らせてもらったがね。

「ぼっちゃま、そろそろお仕度をなさいませんと」
「んー…」

 昼食も済ませたし、仕事が終ってからは俺の自由時間だ。気に入りのお茶を飲みながらソファでくつろぎ、読書することに決めた。読書だけはキルヴァス王時代からどうしてもやめられない俺の趣味だな。
 昨日ティバーンに教えてもらった特急運送の鷹の男が手に入れてきてくれたというこの本は、ベオクの冒険家の海洋旅行記だった。
 見たことのない世界の話はやっぱり面白いものだな。
 もちろん、書いてあることがすべて事実というわけではないだろうが、まだ発見されていない島や海で出会った怪物の話、赤い海や緑の海、凪いで鏡のように静かな海面と空に広がる月と星の世界……。
 あとは立ち寄った無人島で出会った人を丸呑みできるほどの大きな食虫花、ふわふわと空に浮かび上がっていく人の頭よりも大きな綿毛に、密林に潜んでいた鮮やかな色の森豹など、どれも興味深い。
 この作者は冒険家としてよりも作家としての才能に恵まれてるんじゃないかと思うほど、そこに書かれた情景は見事で俺を楽しませてくれた。
 人気のある作家だから、粗悪な写しが多い中でよく正規の本を手に入れられたものだ。この本を見つけてくれた鷹にはちゃんと礼を伝えないといけないな。

「ぼっちゃま、出発の前に済ませたい大切な用事がおありだとおっしゃっていたでしょう。さあ、もう本を閉じなされ」
「おい、ニアルチ! あともう少しなのに」
「いけません。そうおっしゃってぼっちゃまはまた最初から読み直すのですから。本は逃げませんぞ! このじいが預かっておきます。さあ、おみ足をこちらへ」

 本当にあと数頁だったというのにニアルチに取り上げられて、年寄り相手に本気になって取り合いをするわけにもいかないからな。俺は渋々と室内履きのままだった足をニアルチの膝に乗せた。
 ブーツぐらい自分で履けばいいんだが、今朝はやけにニアルチが張り切って俺の世話をしたがるし、なにより本を取り上げられたのが面白くない。

「やはり、少し痩せられましたな。履き替えも必要な時期です。そろそろ職人に作らせますか?」
「いらん。もうそこまでして体裁を取り繕う必要はない。大体食欲が出たままなんだから、逆に太らないように気をつけなくちゃならないぐらいだ」
「そのようなこと。ぼっちゃまは少し太られたぐらいが丁度でしょう」
「みんなそう言うな。俺はごめんだ」

 久しぶりにブーツを履いて立つと、気持ちが切り替わるもんだな。
 用意された黒衣に袖を通して、襟と裾を直される。前のものはもう着られないぐらいぼろぼろになっていたから俺が寝ている間に急遽仕立てたらしいが、さすがの腕前だな。良い着心地だ。
 ……贅沢をしたくないからそういったことは望まなかったが、考えてみればこのブーツにしても黒衣にしても、代々「鴉王」のものを仕立てるのが仕事の職人たちだ。
 俺のものはともかく、せめてリアーネのドレスでも頼むと喜ぶかも知れない。昔から鷺の衣服は鴉の職人が作っていたわけだし。

「ぼっちゃま、もう一度御髪に櫛を通しますゆえ、じっとなさっていてくだされ」
「え? いや、朝ちゃんとやったぞ」
「ええ。わかっております。ですが今一度」

 しょうがないな。腰の曲がったニアルチに合わせて少し屈むと、ぴしゃりと言われた。

「鴉王ともあろう方がそのようなことをなされてはいけません。じいの翼はまだまだ元気ですぞ。さ、しゃんと立ちなされ」
「わかった、わかった。早くしてくれ」

 それからいそいそと髪に櫛を通し、もう一度飾り紐でまとめなおす。仕上げとして毛先につけられた香油は、俺がキルヴァス王でなくなってからはつけなくなっていたものだ。

「ニアルチ、その香油は……」
「この匂いが一番落ち着くとおっしゃって唯一の楽しみとして使っておられたものです。良いではありませんか。これは私の私物として持ってきたものです。なにも遠慮なさる必要はございません」

 香りが好きで気に入ってたんだが、この香油はセリノスに咲く希少な花の精油が原料で高価だから、今の身分からすれば贅沢過ぎる気がする。
 いや、それを言えば今着てる服もそうなるんだが、まあこの黒衣は俺の看板みたいな部分があるからいいとしても、今日は本当にどうしたんだ?

「これでよし。やはり、このお姿が一番お似合いですなぁ」
「そうか?」
「ええ。じいの自慢のぼっちゃまですじゃ」
「……『ぼっちゃま』はやめろって言ってるのに、頑固ジジイめ」

 こんな風にしみじみと見上げられると、なんだか照れ臭い。

「ぼっちゃまのためと思えばこそ、頑固にもなりましょうとも。さあ、ぼっちゃま。鳥翼王様がお迎えに来てくださいましたぞ」
「あぁ、…あ?」
「よう」

 一際力強い羽ばたきが聞こえてテラスに目を向けると、なぜか色とりどりの花束を片手にティバーンが降り立った。
 な、なんだ? どうしてティバーンが花なんか持ってるんだ?

「なんて顔をしてるんだよ。そんなに似合わねえか?」
「いや、似合うとか似合わないじゃなくて、どこから持ってきたんだ!? やっと咲き始めようって時期なのに、こんなことしたらラフィエルとリアーネが……」

 怒るんじゃないのかと言い終る前にばさりと見事な花束を手渡されて、俺は目を白黒させてティバーンと美しい花束を見比べた。

「その二人がおまえに持って行けってわざわざ摘んでくれたからだろ。セリノスの一番咲きのファヴィオラだ。おまえの好きな花だと聞いてるぜ?」
「それは、まあ……どうして二人が? この花束もあんたが作ったのか?」
「おう。なんだ? 気に入らなかったか?」

 そう言っていつものようにごつい腕を組んだティバーンの姿からは想像できないほど見事な花束は、花の大きさや色、配置にいたるまで本当に完璧と言ってもいい出来栄えだ。
 ………似合わない。あの花冠をもらった時も思ったが、こんな大きな図体で、太くてごつい指でちまちまとこんなものを仕上げる姿は、きっと異様な雰囲気に違いない。

「いや、ええと…気に入ったさ。今から出かけるんじゃ堪能もできないと思うんだがな。――ニアルチ」
「はい。ぼっちゃまがお戻りになられるまで決して枯らさぬよう、真心込めてお世話いたしますぞ」
「いや、俺はどうでもいいが、あの二人が悲しむから長持ちさせてくれ」
「ははッ」

 せっかくもらったのに、なんだか悪い気がするが仕方がない。
 もらった花束をニアルチに預けると、俺はいつもにも増して長々としたニアルチの見送りを受けながら羽ばたいた。

「例の鷹の元に寄って行くって?」
「そのつもりだ。……そう言えば、ロライゼ様はまた祭壇か?」
「ああ。おまえも無事目が覚めたし、しばらくは静かに皆を弔いたいってよ」
「そうか……」

 俺が寝込んでいたから仕方がないんだが、「火消し」のフォルカに頼んだ書類が俺より先にティバーンの手に渡ったのは失敗だった気がするな。まあ、ティバーンとしてもあの男から俺に届いた書類がなにかってのは気になるだろう。
 ………ただ、それを読んだのがティバーンだけじゃなくてロライゼ様もと言うのが辛かった。ティバーンにはあの書類を読むのに必要な魔力なんかないし、内容としては元鷺王が読むのは仕方がないと言うか、当然の権利なんだが。
 現鷺王のリュシオンは泣いたらしい。悔しかったろうな……。
 でもロライゼ様は、全てに目を通したあと、涙も流されずに静かに息をついて、あの書類をそっと抱きしめたそうだ。名もない民の一人一人を、その腕に抱くように。
 俺が会った時にはもう、いつものロライゼ様だった。
 ロライゼ様はご自分のことをずいぶん弱いようにおっしゃるが、俺から見ればあの方も強い。
 確かにリュシオンやリアーネのお父上なんだと思った。

「ネサラ様…! 鳥翼王さまも!」

 久しぶりに鴉の集落の中にある寡婦の住む小さな家に降りると、以前にはいなかった鷹の女が出入りしていた。
 いや、ここに限らないな。少し離れた普通の住居にも、男女問わず鷹の姿が見える。

「久しいな。ゲルダ、皆は息災か?」
「はい…。ティゼも元気になりました。今は家を見に行っております」
「家?」

 俺たちの姿を見つけて慌てて飛び出して来たのは、この家の首長格である老鴉のゲルダだ。
 言われたことがよくわからなくてティバーンと顔を見合わせると、ゲルダは顔中のしわを深くして笑った。

「はい。ネサラ様にお許しをいただければすぐにでも婚姻したいからと……」
「どこだ?」

 ゲルダは笑っているが、俺は笑えない。自分の中に落ちる小さな氷のようなものを感じながら尋ねると、ゲルダが真新しい居住区の方を示す。
 鷹と鴉の住居が混在し始めている一角だ。

「ネサラ様…!」

 それ以上の返事は必要ない。一気に飛び立つと、ティバーンも黙ってついてきた。
 あの娘…! 無理をするなとあれほど言ったのに!

「ネサラ」

 どこだ!?
 とにかく、早く見つけなくちゃならない。
 そう思って忙しなく探す俺の腕をティバーンが掴んだ。

「ネサラ、見ろ」

 なにをだ?
 視線を向ける俺を引き寄せて木立の間に入りながら、ティバーンが指さす辺りに、ティゼと鷹の女たち、それからあの鷹の男もいた。

「ティゼ、寝台は絶対わけた方がいいわ。あんたは華奢だから、リコが寝ぼけてのしかかったらつぶれちゃうわよ!」
「おう、そりゃそうだ!」
「お、おまえらな! 俺はそんなことしない! それに、この家を建てているのは俺が罪人で、仕事をしなくちゃいけないからで、べつにそんなつもりは…!!」
「リコ…やっぱりわたしと住むのはイヤですか?」
「あ、いや! そんなわけじゃ…ッ! な、泣かないでくれ!」

 華奢な鴉の娘の涙がさぞ痛いもののようにおろおろとする鷹の男が、あの赦されざる罪人と同一人物だということに、俺はしばらく気づかなかった。
 表情が違いすぎる。それは娘の方も同じだ。
 病人のように青白かったか弱いばかりだった娘は、ほんのりと頬を染めて鷹の男を見上げ、一生懸命なその言葉を聞いて微笑んだ。
 心からうれしそうに。

「どうして……どういうことだ?」
「さあな。ただ、俺たちがいない間にあの男の真心が通じたと言うべきか、鴉の娘の優しさがすべてを変えたと言うべきか、だな」

 大きな身体を縮め、赤くなって必死に弁解する男に向ける周囲の鷹と鴉の視線も暖かい。

「いい加減諦めりゃいいのに…って、か、鴉王!?」
「ネサラさま…!」

 まるで殴られたような気分でしばらくその光景を見ていたんだが、俺は引きとめようとするティバーンの手を払いのけてまっすぐ騒がしい面々の中に降り立った。

「ネサラさま、お身体の具合はどうですか!? わたし、わたしたち…本当に心配して……」
「おまえたちにも心配をかけたな。……おい、おまえ」
「―――はい」

 俺の姿を見て、ティゼも木材を並べていた鴉の男も涙ぐんだが、鷹の男はすぐさま膝をついた。ほかの鷹は男女とも心配そうに俺を見ている。
 なんの用事で俺が現われたかぐらいはわかっているようだな。

「鴉の娘、ティゼに働きしおまえの赦されざる暴力に対し、裁きを申し渡す」
「…はい」
「ネサラさま…! 鳥翼王さま、お願いです。リコを助けて…!」

 深く頭を下げた男は動かない。ほかの連中もだ。
 ただティゼだけが涙ぐんで俺に続いて降りてきたティバーンにすがり、俺は努めて低い声で言った。

「死罪だ。如何なる申し開きも赦さん」
「はい…!」
「立て」

 息を呑んだのも、悲鳴を上げたのも、鴉だけだった。鷹は誰も動じない。
 目には感情がある。仲間との別れを惜しむ悲しみがある。
 だが、それが当然のことだという誇りがなによりもはっきりと表情に出ていた。
 それはこの男も同じだな。ごく当然のように、むしろすがすがしい表情で立ち上がり、まっすぐに俺に向き直りやがった。
 まったく、鷹ってのは……。命乞いされないことが余計に頭にくるな。

「ネサラ様! 後生ですから!!」
「リコは良い人です!! ネサラ様!!」
「ネサラさま…おねがいです……」

 それに比べて鴉たちは……。
 俺は、鴉たちを叱るべきなのか?
 ――クソ、ティバーンもにやにや見やがって! この場であんたが申し立てでもすれば丸く収められる場面だってのに!!

「さて、リコとやら。裁きは鴉王たるこの俺自らが執行せねばなるまいな」
「なんと、鴉王自らが!? その、だったらですね、ちょっとだけ戦ってもらってもいいですか!?」
「げッ、うらやましい…!!」

 おい、なんでそこで目を輝かせるんだ? しかもほかの鷹まで!

「あの、本当にちょっとだけでいいので!」

 うれしそうに準備体操なんかするなよ。後ろで泣く鴉たちをなんだと思ってるんだ!?
 本当に脳みそまで筋肉というかなんというか……。
 ちらりと見ると、泣きじゃくるティゼを片腕に掴まらせたティバーンまでわくわくしてやがる。あんたとはそれこそ本当に命懸けで戦り合った上、俺が死んじまっただろうが!
 俺は頭痛を堪える思いで額を押さえて深いため息をつくと、勝手に盛り上がる鷹連中に言った。
 もちろん、氷よりも冷たい声でな。

「思い上がるなよ。おまえ如きがこの俺相手に勝負を仕掛けるなんて、役者不足も甚だしい」
「そ、それはわかっていますが、でも…!」
「死罪は死罪! 執行も俺が執り行う。それは変わらない。だが、時は今ではない」
「え?」

 もう時間がないからこそ、敵わないまでも戦士として俺やティバーンに挑みたい気持ちはわかる。
 だが、べつに俺は今すぐ死刑執行するなんて一言も言ってないだろ。
 きょとんと目を丸くして俺を見た男に、俺は言った。我ながら甘いとは思ったんだが……この男の命を惜しむ娘の涙が本物だとわかったなら、しょうがないだろ。

「ティゼ、おまえは本当にこの鷹の男、リコが好きなのか?」
「はい…はい、ネサラさま…だから……」
「そんなに泣くな。あのな、脳みそまで筋肉でできてるような男だぞ?」
「男らしくて、優しい方です。わたし、毎日この人が『美味しい』って喜ぶごはんを作って待っていたい。いっしょに暮らしたい」
「ティゼ……」
「あのときは違いました。でも今は…本当に、リコが好きなんです。だから…お赦しください。どうか、どうか……」

 リコは困った表情でなんとティゼをなだめようかおろおろしているし、鴉たちは縋るように俺を見るし、鷹どもの口元はだんだん笑いかけてぷるぷるしてるし、あぁまったく…!!

「鷹の戦士、リコ。命令だ。鴉の娘ティゼに、おまえの生涯をかけて償え。ティゼと作る家庭を守り、宴会に出席する回数を減らしてティゼと夕食をともにしろ」
「え、そ、そんな…鴉王…!?」
「それともおまえには、酒席を諦められるほどにはティゼを想う気持ちがないとでも?」

 目を細くして訊くと、リコは頭がもげて転がり落ちそうな勢いでぶんぶんと首を横に振る。

「めめめ、滅相もない! 俺はティゼを愛しています!!」
「本当だな?」
「本当です!」
「誓えるな?」
「誓います!」

 簡単に言い切りやがって……後悔したって知らないからな。

「よし、わかった。それなら死刑執行は、ティゼがおまえの裏切りに泣いた時とする。以上だ」
「ネサラさま…!」
「クソ、憎いことしやがるぜ!!」

 いつの間にか多くの観衆が集まっていて、俺の出した結論に周囲が沸きかえった。リコは気が抜けたように座り込み、ティゼがうれしそうに飛びつく。
 今はすっかり傷の癒えたティゼの翼に触れるリコの無骨な手は、まるで小さな花に触れるように優しい。
 俺だって、それぐらいはわかるんだ。……納得はしてないが。
 俺の判断がどんなに正しいと思っても、それで民の幸せが壊れるなら……できないだろ。

「ネサラ、おまえはいい王だな」
「ふざけるな。見物してただけのくせに」
「どんな結論を出そうと、俺はそれを認めるつもりだったさ。おまえは、この二人だけじゃねえ。大勢の心を救ったんだぜ」
「………そんなもの、」

 つまらない、なんて。言えない…か。
 ティバーンと二人で賑わう連中に応えながら飛び立って、セリノスの優しい緑を見渡しながら俺は深い息をついた。
 しかし、よりにもよってどうしてあの娘も自分に乱暴を働いた男を愛するんだ?
 そこだけは、本当にわからない。

「ん? どうした?」
「べつに」

 考えてみたら、俺も同じことをしたんだよな。あの鷹の男と……。
 まあ、怪我をしたのは俺の方だが、でも俺だってティバーンに乱暴した。性的な暴力は最低の行為だって思っていたのに。
 ……俺はまだ、謝ってもいない。
 だって今さらどんな顔をしてあの話を蒸し返したら良いのかもわからないし、俺だったら忘れたふりしてる時にそんなこと言われたくない。
 ティバーンだってきっと嫌だろうと思うと、なにも言えないだろ?

「ネサラ、言いたいことがあるんだったら言えよ? 俺は鷺じゃねえんだ。言われねえとわからねえことばかりなんだぜ」
「俺だって同じだ」

 ティバーンの強引な手が届かないよう、少し離れてそっぽを向くと、俺は「それよりも早いところ用事を済ませてくれ」と言って化身した。
 化身すれば、少なくとも些細な表情の変化でどうこう言われることはないからな。
 ティバーンもこうなるとテコでも俺が答えないことは学習済みだ。さっさと化身して、俺の前に飛んで来る。

「わかったよ。それじゃあ、行くとするか」
「……どうぞ、お好きに」

 おどけた俺の返事に笑った気配がして、ティバーンが羽ばたいた。飛ぶことに集中し始めた鷹は本当に早い。ましてこいつは鷹王だ。
 負けじと俺もあとを追って、長い距離をついて行くことになったのだった。
 行先さえわかってるなら気分も楽だったのに、ようやくどこを目指してるのか気づいたのは海に出て小さな島に一泊し、出発してからだ。
 間違いない。……キルヴァスに向かってる。
 理由を訊きたかった。どうして今さら俺を連れてキルヴァスに行くのか。
 もちろん、捨てたわけじゃない。あの赤茶けた貧しい大地は、今でも俺の故郷だ。
 でも……フェニキスの惨状を思い出したら、かつては王だった俺がのうのうとキルヴァスに戻るのは赦されないような気がする。
 迷いのない大鷹の背中を見つめて、俺はなんとも言えないざらついた気持ちを噛み締めながら飛んでいた。

 やがて、真上にあった日が傾きはじめたころ、赤い岩と砂ばかりの島が視界に入った。城に近い辺りだけ、今は鮮やかな色がある。
 ……墓地だ。鷹も鷺も「墓地」ってものに対する概念が薄い。でも俺たちはそうじゃなくて、必要なものだから。このキルヴァスに、もう国ではないこの島に作ることにしたんだ。
 本当に花を手向けに来る者がいるんだな。鮮やかな色が目に、心に沁みた。

「……ティバーン?」

 不意にティバーンが旋回して化身を解いて、俺もそれに倣いながら吹きすさぶ風の中に浮かんだ。
 地上はもうそうでもないんだが、城を眼下に見下ろすこの位置が、一番風が強い。まして今は冬から春になる季節で、真冬の海峡を渡る風も凄まじいが、瞬間的には今の方が強いぐらいだ。

「お、おい…」
「降りるぞ」

 俺を見て笑ったティバーンが黙って俺の腕を掴んで、ぐんぐんと降りて行く。俺が城の門前に降り立つと、この城の管理を続けたいと残った老鴉たちが俺とティバーンの姿を見つけてざわつきながら出てきた。

「ネサラ様…! ネサラ様、よくぞお帰りくだされました…!!」
「鳥翼王、我ら鴉は心より感謝いたしますぞ」
「いや、俺は……」
「ネサラはまだ墓地がどうなったか知らねえんでな。墓の方へ行かせてもらうぜ」

 一斉に膝をつき、恭しく俺の手を取った老兵にティバーンが言うと、すぐにべつの鴉が立ち上がった。
 この中では若い方だろう。それでも羽はずいぶん色あせ、顔にも深いしわが刻まれ始めている。

「どうぞ、こちらでございます。王のご帰還である! 開門! 開門せよ!!」

 だが、声はまだ充分に張りがあって若い。

「石の門だろ。重いよな。若い連中もいねえし、中に直接降りてやった方が親切だったか?」
「いや……」

 確かに前よりは時間がかかっているが、それでも待ってやりたい。こんな、王門の開け閉めだなんて、俺たち翼のある民にとってはまったく意味のないことだ。
 それでも、「王」だけがそれを実行させる権限を持つ。
 つまらないことかも知れないが、ベオクに対する意地だったんじゃないかと思う。鴉の王が…今は俺が通るためだけに、こんな砂埃の多い国でこの王門前を常に美しく保つのに払われる努力がどれほどのものか、俺は知ってる。
 だから俺はなにも言わずに待った。もちろん苦い気持ちはあったが、どちらかと言えば今は俺の王になったティバーンをくぐらせたい気持ちがあるからだ。

「……見事だな」
「そうだろう? ここの石は硬い。でも、鴉の職人がこれだけの彫刻を彫ったんだ。ただ王を迎えるためだけに」
「…………」
「ティバーン、今はあんたがその王だ」

 灰色の石材は、キルヴァスでは希少なものだ。一枚岩を運ぶ力はないから、工夫してこの大扉を作り上げた。
 彫られたレリーフは対になった鴉と、セリノスの花、そして草木。太陽、月……。
 石の大扉が開かれて行くごとに、正面に立つ王の目に最も美しく見えるよう配置され、彫り上げられている。
 鷹の民と袂を分かって……「国」を造る。「城」を作る。そのことに対する鴉たちの思いがどれほど深く大きかったことか、俺はこの王門を見ると考えずにはいられなかった。
 石畳を進むと、そこは城の中庭だ。ベオクの城のように立派な噴水があるわけじゃない、セリノスのように美しい花壇があるわけでも、フェニキス城のように野趣溢れる草木が茂っているわけでもない。
 だけど小石もわずかな砂埃も残さず掃き清められた城内に続く石畳の小道のあるこの小さな中庭は、俺の自慢だ。
 ……どうしようもないな。
 もう王じゃない。口ではそう言っているのに、もう「キルヴァス」という国もないのに……。いつ帰ってくるとも知れない俺を迎えるためだけに、こうして日夜美しく磨かれたこんな場所が誇らしいなんて。

「正面から入るのは初めてだが、見事なもんだな。よく手入れが行き届いてるじゃねえか」
「あんたはいつも適当なテラスから飛び込んで来たからな」
「テラスから入ったっていちいち『ご用件は?』『お取次ぎいたしますのでどうぞお待ちを』だぜ? 正面からなんか来てみろ。どれだけ面倒になるか考えたくもねえぞ」
「あのなあ、他国の王に会いに来たって自覚がなさ過ぎるだろ。まったく……」

 獅子王や黒竜王、もちろんロライゼ様にはそれなりに常識的にやってたくせに、こういうところが腹が立つんだよな。

「あの、ネサラ様、こちらです」
「城の裏手か……。確かに、墓地にするには良いな。天候が荒れればセリノスから来た者を城に泊まらせることもできるし」
「はい。本当でしたら一般の者をそう寝泊りさせるのはどうかという意見も多かったのですが、訪れた者が皆喜びますので。なによりも王に対して不敬な行動を取る者は、誰もおりません」
「あ? どういうことだ?」
「ネサラ様の私室や執務室に、勝手に入り込もうという狼藉者はいないということです」

 毅然とティバーンに向き直って鴉の兵が答えた一言は、もちろん強烈な厭味だ。
 まあ思い出してみればティバーンは俺が帰れと言ってるのに帰らなかったり、兵たちの前で公然と俺を怒鳴りつけたこともある。
 王として抗議に来てるならそれなりの立ち居振る舞いってのがあるからな。そういうことを一切気にしない点を親しみやすいなんて思うのは、ただの勘違いだろ。少なくとも「王」としては大きな欠点だと俺は思うぞ。

「言われちまったぜ。鴉ってのはどいつもこいつも行儀が良いんだな?」
「……あんたも見習え。せめてウルキ辺りをな」
「よせよ。俺に似合わねえだろ?」
「似合う、似合わないの問題じゃない」

 キルヴァス城内の廊下は砂嵐に備えて基本、窓がない。暗い廊下を右に進んで銀製の枠で飾られた扉の前に立つと、丁寧に鍵を開けて扉が開かれた。

「あちらが王の墓所で、この先が一般の者の墓所となっております」
「なるほどな。こちら側は城に守られて風が穏やかなのか」
「そうです、鳥翼王。さあ、ネサラ様……」

 死者の国と生者の国を隔てるという意味を込めた青銅の門扉が開かれ、名を刻んだ細くて薄い棒状の石が垂直につきたてられた百を優に越える墓が目に飛び込んできた。
 どの墓の前にも花が手向けられている。それがまばらな花畑のように赤茶けた固い地面に広がっていた。

「どうですか? 美しいでしょう。セリノスではもうこんなにたくさんの花が咲くところがあるそうですね。南に近いほど花が多いと聞きました」
「あぁ……そうだろうな。俺はまだ見ていないが、きっと見事に咲いてるんだろう。今日はセリノスから来た者はいないのか?」
「はい。週に一度、墓守の休養日を設けているのです。あちらこちら手入れをしなくてはいけないところもありますから」
「そうか……」

 本当は、ここに眠る一人一人に向き合いたい。ここに眠っているのは、俺に命令されて、傭兵として異国で死んでいった者たちが多いと聞いていたからなおさらだ。
 おまえたち……俺だけ生き延びてしまって…本当にすまない。
 死者は死者だ。なにか願いを残していても、声を聴く術もない。
 そう思うと、俺にはただ彼らに頭を下げることしかできなかった。

「ネサラ様! おやめください!!」

 だが、ついてきた鴉の兵が飛び上がって俺を止めた。

「どうかそのようなことをしてくださいますな…! あなたが生きていてくださって、我々がどんなにうれしいか…! キルヴァスの王位は、呪われている。誰もがそう思い、けれど口にはできませんでした。あなたはその呪いを解いた英雄です! キルヴァスの王位についてだけではない。この国そのものさえ救ってくださった…!」

 今はセリノスに移住できるようになったし、確かに鴉たちは救われた。でもそれはティバーンが救ってくれたんであって、俺じゃない。
 だがここで俺がそのことを口にしても、この男は納得しないだろう。涙ぐんで訴えてくる男の言葉を黙って聞いていると、ティバーンが俺の肩を抱いた。
 なにか言ってやれってか? ……なにもないさ。

「ですから、どうかネサラ様…お願いですから」
「わかった。おまえの心は受け取った」
「はい……」

 表情を見ればまだ納得してないことはわかるが、かといって俺にこれ以上言えることはない。
 だからティバーンが俺を促すのに逆らわずに俺は歩き出した。
 どうやら、王家の墓所も見たいらしいな。

「鳥翼王! 王家の墓所は部外者が入ることは固く禁じられております! いかな鳥翼王とてそれは…!」
「忘れるな。今はこの男が俺の王だ」

 兵が激しい剣幕で俺を引きずるように歩くティバーンに抗議するが、ぴしゃりと命令すると不服を見せながらも押し黙る。
 もし好奇心だけなら俺だって赦さないが、ティバーンはそんな男じゃない。
 そう思って黙っていると、そんな気持ちが伝わったはずもないのにティバーンが言った。

「この国を守り、苦しみも、志もおまえに繋げた王たちに俺も挨拶してえんだよ」

 簡潔な言葉だ。
 だけど、そこに込められた想いの熱さは、俺にもわかる。
 まったく…そんな風に言われたら、断れないじゃないか。
 王家の墓所に続く道ももちろん整備されていて、両脇には今はまだ花は咲いていないがささやかながら花壇もある。
 一段高くなった艶のある漆黒の石の床に、歴代の王の名が刻まれていた。

「ここか?」
「そうだ。……この模様になってる部分が開いて、中に遺体を収めるようになってる。もっとも、人数が多すぎるから風切り羽と遺骨の一部しか入れられないがね」

 ずらりと並んだ名前と在位を示す銀を流し込んだ文字の羅列を、ティバーンはしばらく黙って見ていた。
 本当は俺もここに名前が刻まれるはずだったんだな。……いや、罪人として裁かれるんだから、それはないか。
 しばらくして磨かれた石の床に膝をついて頭を下げると、ティバーンは懐から取り出した酒の小瓶を置き、立ち上がった。

「どうして酒なんだ?」
「花を持ってこなかったからな。まあ、気持ちってヤツだ。ぶっかけようかと思ったんだが、鷹と鴉じゃ流儀が違うだろうしよ。おい、おまえ。良かったらあとで飲め」
「は? いや、しかし……」
「王自らおっしゃってるんだ。気にせず飲め」
「は…ははッ。ありがとうございます」

 まあ、酒をもらって喜ぶような鴉は少ないが、もしこの男が飲めなくても誰か飲めるヤツが飲むだろ。
 それからティバーンはまた城内に戻って老兵たちに挨拶をして、もう一度俺を連れ出した。

「ティバーン……どこへ行くんだ?」
「キルヴァス城をゆっくり見てえんだよ」
「見ればいいだろ。俺は城内になにか忘れ物がないか見てきたいんだが……」
「あとにしろ。おまえと見たいからわざわざ来たんだ」

 俺と? どうして?
 不思議に思ったが、ティバーンは穏やかな春の日差しに照らされたキルヴァス城を大切なもののように見下ろしていた。
 ……いい思い出なんかないだろうに。大抵俺に文句をつけに来たり、俺にいらいらさせられたり、砂嵐で足止めを食ったりしても、ここじゃ満足に肉も食えなかったはずだ。

「おまえは…鴉王になってから城に住むようになったんだよな」
「ああ。連れられて来た時には泊まったりはしたけどな。俺はほとんどセリノスで暮らしてたから」
「生まれたのは?」
「父の家だ」
「へえ、見せてくれよ」

 ティバーンは顔を輝かせて言うが、見せるったってな……。

「なんだよ、いやなのか?」
「そうじゃないが……。もうないんだ」

 これじゃ意味がわからないよな。仕方がない。
 俺は「こっちだ」とティバーンの手を引いて、キルヴァスの西側に回った。
 このあたりは石造りとはいえそこそこの規模の家が多い。俺の生家はこの中でも一番奥になる。

「これは……」
「もう取り壊されてるんだよ。父上は……鴉王に謀反を企てたそうだから」

 代々の鴉王の政治は、基本として恐怖による統治だった。謀反に対しては特に厳しい。
 石と煉瓦を使った家は、完膚なきまでに破壊しつくされていた。今になって残るのは砕かれた石材の残骸と、建材に使われた木の欠片、それから持ち出せなかった暖炉の名残ぐらいか。

「暖炉の跡があるから、ここが居間だったんだな。ここに大きなソファがあって、俺がお腹にいる時によく母上が座って編み物をしていたそうだ」
「そうか。俺はおまえのお袋さんを知らないが、会ってみたかったな」
「俺もだ。絵姿もないからな」

 今はもう間取りもはっきりとわからない。やけに残念そうなティバーンに笑って答えると、大きな手で頭を撫でられた。
 べつに両親が恋しいなんて思ってないのに、すぐ先回りして考えるんだよな。それも、見当はずれなことばかり。
 だが、最近気がついた。

「あんた、母上にべったりだっただろ」
「あ? なんだそりゃ。べったりはしてねえよ。まあ…おまえら鴉みてえに親父がいつもいるわけじゃねえから、そういう意味では二人分の愛情をお袋がかけてくれたってのはあるけどよ」

 やっぱりな。
 この男は、自分が愛されて育ったから恥ずかしげもなくこんな風にできるし、口にできるんだ。
 自分の中にたくさん愛情とか、そういうのがあって、だから他人にも分けられるってところか。
 ……リュシオンが懐くはずだ。

「しかし、そうか。それじゃあガキのころのおまえの思い出の場所ってのは、やっぱりセリノスになるよな」
「そうなるね」
「セリノスも燃えて、今でもなにもかも元通りってわけにゃ行かねえし…キルヴァスはな。いい思い出が多いわけじゃねえんだろ?」
「それは、まあ……」

 一体なんなんだ? さっきから。
 どうも話が見えないな。
 なにやら勝手に頭を悩ませてるらしいティバーンを見上げて首をかしげると、俺は細かい土埃にまみれた門の残骸のそばに膝をついた。
 なにか落ちてるように見えたからなんだが。

「ネサラ、どうした?」
「いや……」

 見つけたものに驚いていると、ティバーンまでこっちに来た。
 土埃に半ば埋まっていたのは、小さな双葉だ。よく見ると、ほかにも芽を出してる草がある。
 キルヴァスは岩が多くて、土も乾いていて…どう努力しても作物が育たなかった。砂漠でさえ育つものでも枯れたんだ。植物が育つのはごく一部のところだけで、そこでも採れるものは本当に小さくて、乾いていて……。
 それなのに、最も乾いているはずのこの辺りに、こんなみずみずしい緑が芽生えていることに驚いた。

「へえ、なんの花だ?」
「わからない。場所を変えてはいろいろ植えたけど、どれも駄目で……。それなのにどうして急に」

 待てよ。そういえば、いつもの年より土埃が少ないような気もする。いや、本当に気のせいかも知れないぐらいなんだが。
 土が湿って来てる……?
 土壌の改良については俺も、代々のキルヴァス王もかなり本気で取り組んでいたから、気になるじゃないか。
 今年になっていきなりその効果が現われた? 百年以上努力して、去年までなんの効果もないどころか、少しずつ悪化していたぐらいなのに?

「なあ、ほかにもあるかも知れねえぜ」
「え?」
「探してみねえか?」

 ここに一番近い水源はどこだ? 真剣に考え始めたところで、ティバーンにそんなことを言われる。
 見上げた表情はやけに明るい。なんというか、子どもが悪戯の成果を確かめようとしている時のような……。
 そこまで考えて俺は勢い良く立ち上がった。

「あんた、なにか知ってるな?」
「いや、そういうわけじゃねえよ。ただ、こんなところに緑が生えてるなら、もしかしたらほかにもあるんじゃねえかと思ってだな…」

 ったく、こんな時に限って嘘が下手だな!
 顔を寄せて「どこだ?」と凄むと、ティバーンはぐっと黙って視線をあちこち動かし、いかにも渋々とした様子で白状しやがった。

「探す楽しみも大事だと思うんだがなァ……」
「宝探しが楽しいのは暇人だけだ!」
「浪漫のねえ話だぜ」
「そんなもので腹が膨れるかッ!」

 そこまで怒鳴ると、ようやく諦めたようにため息をついたティバーンが先に羽ばたき、後を追った俺の手を握って引き寄せる。

「なあ、目を閉じてろよ」
「探せと言っておいてなんだ、それは」
「いやなに、おまえのびっくりする顔を見たかっただけなんだが」
「あのな……」
「しょうがねえ。こっちだ」

 呆れてなんと怒ってやろうかと思ったところでティバーンが先に動き出し、手を引かれるままに飛ぶ。こっちはキルヴァスの中央部…か? この辺りは本当にどうしようもないほど乾燥しきっていて、山羊ですら生きていくのが厳しいほどなのに、まさか……。

「!」
「よく見てみな」

 薄い雲の切れ間から零れ落ちた太陽の光が、柔らかな緑を照らしていた。いつもこの辺りで無秩序に荒れていたはずの風が優しい。
 今日は珍しく砂埃が少ないのか、空が綺麗だとか、目が痛くないとか…そのぐらいにしか考えていなかったのに。

「ロライゼ様がおっしゃっていた。キルヴァスは元々そこまで緑の少ない島じゃなかったはずだと。血の誓約の恐ろしい「負」の気がこの島全体を包み込み、命を育む力を失っていたようだとな。鷺は翼が弱い。キルヴァス近海の風の道は乱れているから訪れることはなかったが、もしも一度でも自分が訪れていたなら、もう少し鴉たちが苦しまずに済んだかも知れないともな」
「そんな…そんなこと……」

 全然、わからなかった。
 大体、植物の命すら育むのが難しいほどの強い「負」の気があるなら、鷺なんて絶対に近づけないじゃないか。たどり着く前に倒れてしまう。
 俺は信じられない思いで首を振り、穏やかに広がる緑の草原を陶然と見つめた。

「降りてみようぜ」
「だめだ。踏み荒らして枯れでもしたら」
「そんなに弱いはずがないだろが。ほら、来いよ」

 俺の手を引くティバーンに逆らうことはできなかった。誰よりも俺自身がこの目で確かめたかったからだ。
 恐る恐るつけた足を、柔らかな草が受け止める。セリノスでは馴染みの青くすがすがしい匂いが俺の鼻腔を満たした。よく見れば、ところどころに小さな花が咲いている。
 なんてことはない。セリノスにも、フェニキスにも、ベオクのどの国でもよくみた雑草だ。でも、キルヴァスではどうしても芽吹かなかった。キルヴァスで花が咲くのは、本当に限られた場所だけだったんだ。
 その小さな雑草の花がどうしようもなく愛しくて、俺は震える指先で小さな花にそっと触れた。

「ネサラ」

 ―――見せてやりたい。
 死んでいった鴉王に、民たちに、父上に、母上に……。
 見せてやりたい。
 この不毛の大地にも、生まれる命があったことを。

「どうして……?」

 花の上に涙が落ちた。
 いつ流れたのかもわからない。いつの間にか流していた涙は、俺の中からあふれたものだった。

「どうしてティバーンが……」

 その涙を拭いもせず呆然と顔を上げると、優しい目をしたティバーンがキルヴァスでは珍しい、優しい風に揺れる俺の髪をすきながら言った。

「ロライゼ様とラフィエル、リュシオン、リアーネがおまえのために謡ったんだ。きっかけは血の誓約を解除した時だったな。上手く行くかどうかわからない。だから結果がわかるまで黙っていようと決めた。鴉たちも協力してくれたんだぜ? もっとも、見ちまったら言いたくなるだろうから、この辺りは立ち入り禁止にしてな。鷺が謡ったこの辺りだけじゃなくて、おまえの生家の辺りも少しずつ回復の兆しが見えてきてたのには俺も驚いた」
「こんなこと……駄目だろ……」
「ネサラ」
「苦しんだのは…一番苦しんだのは」

 俺じゃない。
 いつだってそうだ。
 一番苦しんだ、辛かった者が報われない。
 叫びたくなった。
 どうしてかはわからない。
 今になって、もう誰もいないのに、ぶつける先もないのに、どうしようもない憎しみと怒りがこみ上げる。
 あの元老院はもうない。ベグニオンを今統治してるのはサナキだ。
 サナキにはとても言えない恨み言が、俺の中から溢れそうになった。

「ネサラ。来い」

 声を飲み込んで顔を覆った俺を、ティバーンが引き寄せる。
 厚い胸に、逞しい腕に抱きしめられて、俺は堪え切れない嗚咽を漏らした。

「誰もいねえ。ここなら、誰にも聞こえない。だから来たんじゃねえか」

 翼が震えた。首を振ってティバーンの腕から離れようとしても、俺の力じゃ解けやしない。
 濡れた頬を両手で掴まれて、顔を上げさせられた。
 そこにいたのは、幼いころと同じ、優しくて逞しい鷹の戦士のティバーンだ。

「くやし…かったんだ…」
「ああ」
「くやしい、なんて…もう…言えないのに」
「そうだな。ぶっ飛ばしたくても諸悪の根源になった連中は残ってねえ」
「もう…だれも…帰って、こな……」

 零れた言葉を涙ごと受け止めて、ティバーンが俺を抱きしめる。
 それから囁いてくれた。

「おまえが帰って来てくれただろ」

 その深い声が、俺の心を震わせた。
 俺が泣くなんて、そんな資格ないだろ……。
 甘えてるだけだ。それがわかっていながら、どうしても我慢できなかった。
 飲み込んできた感情がいきなり溢れて、止まらなくなった。

「おまえは、望んじゃいなかったかも知れねえ。だが、俺は…俺たちは、うれしかった。おまえがいなくちゃ外交で困るとか、そんな理由じゃねえぞ?」

 ティバーンの腕に、いっそう力がこもる。
 このまま壊されてもいい。
 そんな衝動に近い思いが湧き起こって、俺は震えるような息をついて行き場所のなかった手でティバーンの服を掴んだ。

「みんなも、俺も…おまえが大事だからだ。ネサラ、俺はおまえに惚れてる」

 言葉の意味が伝わるまでには、数秒かかった。
 驚いてのろのろ胸元から顔を上げた俺の涙を太い指で拭って、ティバーンが照れたように笑う。

「こんなこと、わざわざ言うのもこっ恥ずかしいからよ、どう伝えたもんか迷ったが……。言わなけりゃおまえ、わからなかったろ?」

 瞬きすると、また新しい涙が落ちた。

「おまえが好きだ。俺はおまえと暮らしたい。もちろん、おまえの仕事はわかってるし、おまえにしかできねえことが多いから国外にいることが多いのはしょうがねえが……おまえが帰ってくるのは、俺の部屋にして欲しい」
「ティバ……」

 なにか言う前に鼻水が落ちそうになって慌てて手巾で押さえると、俺は急に慌しくなった動悸に驚いて馬鹿のようにティバーンを見上げながら首を横に振った。

「なんでだよ? 俺の部屋が嫌なのか?」
「ひ…とりで…静かに、寝た…いッ」

 くそ、こんな時に妙なことを言いやがって!
 まだ嗚咽が止まってない。上手くしゃべれないんだ。

「そ、それはわかった。そういう意味じゃなくてだな」
「せっかく…部屋…ッ、ニ…ルチが……」

 俺のために苦労して落ち着く部屋を用意してくれただろうに、使わないわけにも行かないだろ。
 大体、ティバーンの部屋に寝泊りしたらますます書類で甘えられる。書類を手伝ってやるのはいいさ。だが、ティバーンには誰よりも王としてしっかりして欲しいんだ、俺は。
 そう言いたいのに上手く声が出なくていらいらしたんだが、ティバーンは俺の視線で大体のことが飲み込めたんだろう。がくりと項垂れて大きなため息をついた。
 諦めたのか? そう思って様子を伺っていると、ティバーンの逞しい肩が震えて、押し殺した笑い声が聞こえてくる。
 むっとして文句をつけようと思ったが、それより早く顔を上げたティバーンが妙に晴れやかに笑っていきなり俺を片腕で抱え上げた。

「ティ、ティバーン?」
「返事は焦らねえことにした。無理はさせねえよ。そのまんまのおまえが好きなんだからな」

 意味がわからん。ず、と鳴る鼻を手巾で押さえて目を瞬くと、もう一方の手で涙で頬に張り付いた髪を払われ、ぐいと後頭部を掴んで引き寄せられた。
 さすがに今口づけされたら嫌だ。
 慌てて太い肩を掴んで顔を背けようとしたんだが、ティバーンは俺の抵抗を気にせずに額に口づけた。
 ま、まあそこならいいか。強張っていた身体の力を少し抜くと、今度は瞼にされた。
 睫毛に残った小さな雫を舌で拭われて、かっと頬と耳が熱くなる。

「こんなの…赤ん坊みたいだろ」
「心配すんな。赤ん坊相手に欲情しねえよ」

 今…さらりと凄いことを言われたような気がするんだが、なにか言った方がいいのか?
 固まった俺に笑って、ティバーンがまだ手巾で鼻と口を押さえたままの俺の手を握る。

「俺の言った『好き』の意味ぐらいは、わかってるだろ?」

 また鼓動がはねた。

「ティバーン……俺は……」
「意味がわかってるならいいさ。じっくり考えてくれ」

 困った。こんな展開は考えていなかった。
 俺は…応えられない。
 ただでさえ今はいろんなことで頭がいっぱいになっちまってるのに、ティバーンが納得する断り文句が思い浮かばなくて、俺は途方に暮れた。

「ネサラ、手をどけろ」

 迷う俺にティバーンがなにをするつもりかわかって、慌てて首を横に振る。

「き、汚いんだ。その…鼻水が、」
「気にしねえよ」
「俺は気になる!」
「じゃあ、手巾越しでいい」

 意味がないだろ!?
 むっとして言い返そうとした俺の口元に、本当に手巾と指越しにティバーンの唇が触れる。
 それからくたりと俺の頭を肩口にもたせ掛けて、耳元で囁かれた言葉に俺の涙腺はまた決壊する羽目になった。

「フェニキスももう緑が戻ってきてるのは知ってるな? おまえに見せてやれってよ。フェニキスにいる鷹の民から手紙が来たんだ」

 どうして、あんたたちはそんなにお人好しなんだ…!?
 まだ俺を憎んでいる者がいる。その一方で、受け入れる者もいる。

「おまえを赦す、赦さないの話じゃねえよ。あの時も言っただろ? 生きて償えと。おまえの迷いはわかってる。だが、何度でも言うぞ。俺はおまえの心と躰、両方欲しい。今までの俺なら力ずくで奪っただろうが、今回は違う。おまえの気持ちが定まるのをちゃんと待つ」

 この男にここまで言われて、拒める女はきっといない。
 ティバーンも馬鹿だな。俺相手にそんなことを言うなんて…もったいないだろ。
 潤んだ視界の向こうに揺れる男らしい顔を黙って見つめていると、限界を超えた涙が頬に流れて火のような激しさで俺を見つめるティバーンの金褐色の双眸がはっきりと見えた。

「幸せになろうぜ、ネサラ。おまえが不幸なままじゃ、誰よりおまえの大事な鴉と鷺たち、ついででも良いが、鳥翼の王たるこの俺が不幸のどん底になっちまうことを覚えとけよ」

 唇で涙を拭われて、俺は震える唇を噛み締めて視線をそらした。
 涙でかすむ視界の向こうに、優しい緑の草原に変わろうとする赤茶けた大地が広がっている。
 ……もっと、見ていたい。いつか、この島がもし…緑に包まれる日が来るなら。
 誰かを裏切る日がまた来ないとは限らない。
 だけどもう…民を裏切りたくない。
 幸せになって欲しい。
 心に夢見る幸せに笑う民の顔の中に、今では鷹の姿も多くなった。
 俺も単純だな……。
 その中で一番はっきりと浮かぶ鷹の姿は、ティバーンだった。

「明日はフェニキスだぜ」

 あんたを幸せにするには、どうしたらいいんだろうな?
 離れたい。離れなくちゃいけない。
 そう思っていたけど、俺の背中を撫でる手があんまり優しくてできなかった。
 甘えたいんじゃない。大きな手からティバーンの想いが染み込んできたからだ。
 だから俺は迷いながら、ためらいながら…そっとティバーンの首に腕を回した。満足そうに笑ったティバーンが今度は俺の翼を撫でる。
 ティバーンを信頼しきった証のように、俺の翼は一切の浮力を帯びずに大人しくその手を受け止めていた。

「今はもうキルヴァスとセリノスと同じで、おまえの守る場所の一つだ」

 そうか…そうだな。本当に、そうだ。
 その言葉に、初めて素直に頷けた。
 まったく、俺も情けない。泣いてばかりもいられないだろ。
 冷静になった頭の片隅でそう思うと、やっとしつこかった涙が止まる。

「なんだ? 降りるのか?」
「…涙腺の、掃除が終ったんで、ね」

 名残でまだちゃんと話せないが、落ち着いたんだから充分だ。
 やけに久しぶりに自分の足で立った気がする俺の背中で噴き出したティバーンに若干腹は立ったが、もう文句を言う気にはなれなかった。
 そっと袖をめくった手首に、もう赤い痣はない。消えてからも何度も確かめたのに、俺の立つ緑に覆われた地面がやっとその事実を俺に教えてくれたみたいだ。
 ひとつの歴史が終って、また新しい歴史が始まる。
 死ぬことだけが償いじゃない。それはただの逃避だ。
 たとえ、誰かに死を望まれたとしても、もうその選択肢を自分で選びはしない。
 俺は…生きていこう。
 生きて、俺の国を、俺とともに生きる民を守る。
 すべてを覆うほど大きな翼を持つ王を得たのは良いが、すべてにおいて大らかというより大雑把だし。……どんなに力強い翼を持つ鳥だって、翼を休める場所は必要だろ。
 そんなことを考えたら、今さら恥ずかしくなってきた。いつまでもぐずぐずする鼻を押さえて羽ばたくと、小鳥たちが俺のそばに寄って挨拶するように小さく旋回する。
 たったそれだけのことがうれしくて、俺は春先特有の強い風に千切られる上空の雲を見上げてようやく笑った。





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